猫沢シネマ

映画のスペシャリスト猫沢エミと、ただの映画大好き長谷川たかこがお届けするシネマ往復書簡。
ふたりの間で映画をテーマにどんな会話が交わされるのか? ふたりのプロフィールはこちら

たかこ&猫沢のシネマ往復書簡 N゜9

たかこさん、こんにちは。人形町でお会いしてから気がつけばずいぶんと経ちますが、まるで昨日のことのようですね。ところで、まだ日本は暑いのですよ!パリはもうすっかり秋でしょうか?さて、たかこさんが2回も見たという‘善き人のためのソナタ’、私もさっそく見てみました。感動、などというありふれた言葉では言い表せない深く暗い焦燥感と、同じくらい大きな希望が体中に満ちている感じ。いやもう、これはドキュメンタリーを超えたフィクションといいますか、映画という媒体をここまでうまく使い切った歴史的にもとても貴重な作品だと思いました。

Persepolis 映画の冒頭で、国家保安省(シュタージ)のエリートであるヴィスラー大佐は、将来のシュタージ候補生たる大学生たちに、東ドイツ国家に対して反思想を抱く容疑者への取調べテクニックを事細かに指南しますね。この時点では、ヴィスラーは、完全な‘国家の犬’なわけですよ。この滑稽なほどまじめで一本気な性格が、彼を国家の犬たらしめ、また彼の根底に流れているまじめさが‘善き人’への道を開いたと思うのです。この映画には、ヴィスラーと同じように国家の犬が他にも何人か登場しますが、彼らとヴィスラーの違うところは、信じているものの有無です。他の権力者たちは、どちらかというと、社会主義国という体制を利用して、ただ単に地位を上げ、権力を得たいという一心で、さも国家に尽くしているかのようにふるまいます。もちろん、彼らもこうした恐怖政治の社会で、唯一自分の身を守る手段として地位を得たいという切迫した思いもあったでしょう。 けれど、ヴィスラーのそれはある意味もっと純粋。本気でこの国を信じ、自分が悪の種を摘みとるぞ、という使命感すら持っている。時としてまじめな人というのは、一度信じたらどこまでもその道を突っ走るようなところがありますが、戦中の日本人と通じるような一途さやまじめさを彼からも感じました。そのまじめさゆえに、彼はドライマンの弾く‘善き人のためのソナタ’を聴いて、本気で涙することが出来た。ドライマンと恋人クリスタの間に流れる人間的な情に心を動かされ、自分の信じていた国という漠然とした大きなものから、個人の幸せや自由といった人間的な価値へと移行することができたんじゃないかと私は思いました。それと、この映画の素晴らしいところは、映画の手法としてありがちな、ショッキングな事件をきっかけに雰囲気で映画を終わらせてしまわないところ。むしろ、この物語の真骨頂は、終盤のこの事件を起点にして始まるといっても過言ではない。ここからヴィスラーの人生を投げ打った善き行いは、実を結んでゆきます。

それにしても、思想や国家権力のこのむなしさはどうでしょう。この映画の根底に流れてるテーマは、所詮、不完全な人間が作る国家思想など、社会主義、資本主義、どちらに転んでも不完全なものでたかが知れているということなのではないでしょうか。それだからこそ、ヴィスラーがたったひとりの人間として自分の良心に従い、ドライマンを救った事実は、光り輝く。そして見る人すべての耳にこのソナタを焼きつけて、希望をあたえてくれるのじゃないかって、私は心から思いましたね。

おまけですが、先日‘ボスニアの花’というボスニア紛争を扱った、とても良い映画を試写会で見ました。ここで感想を書いてしまうと、とめどなくなってしまうので、もしもよろしかったら私のHPにこの映画のことを書きましたので、ぜひ読んでみてください。(スクロールして下へ。07.09.12の日記です。)
http://www.necozawa.com/f_diary.html
善き人のためのソナタ(La vie des autres)
2006年ドイツ作品
監督&脚本/フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク
音楽/ガブリエル・ヤレド「イングリッシュ・ペイシェント」「コールドマウンテン」「リプリー」
出演/ウルリッヒ・ミューエ、マルティナ・ゲデック、セバスチャン・コッホ

※本年度アカデミー外国語映画賞受賞!!全世界で38の映画賞を受賞!!の 「善き人のためのソナタ」DVDが発売になりました。グランド・エディション(初回限定版DVD-BOX)には、本編ディスクの他、監督&キャストインタビューやメイキングを収めた特典ディスク、オリジナルサウンドトラックCD、ブックレットがついてます。
長谷川たかこ プロフィール
パリ在住20年の文筆家。版権エージェント・翻訳家を経て出版プロダクションを立ち上げ、フランスのバンド・デシネ(漫画)を日本に紹介。漫画家の長谷川町子は伯母にあたる。
長谷川たかこ プロフィール
猫沢エミ プロフィール
ミュージシャン、エッセイスト、映画解説者、グラフィティーライター。2002年よりパリ在住。 著書に "パリ季記~フランスでひとり+1匹暮らし~" (地球丸)がある。
オフィシャルHP: Ou est mon chat?(www.necozawa.com)
猫沢エミ プロフィール
バックナンバー