』はエミさんが満遍なく書いてくださったので、これ以上付け足すことはないですが、私も、ジェラール・ドパルデュー自身の人生と重なるなあ、と思いながら観ました。最後で、少年になったエンゾと母親のニーナが再会するシーンに強い既視感があったので、何だろうと記憶の中を探したら・・・『パリ・テキサス』でナスターシャ・キンスキーが息子と再会するシーン!長い間会わなくても、抱き合った一瞬で距離と離れていた時間がぶっとぶ母と子の関係。この強い絆に感動すると同時に、父親にしてみれば「不公平!」といいたくなるんじゃないかと。フランスでは「父親の立場とは何か?」というテーマの本が結構売れるんですよね。
こっちでは日本映画が立て続けに封切り。『トウキョウソナタ』も『歩いて歩いて』も批評がすごくいいです。後者はまだですが、『トウキョウソナタ』はすぐに観に行って、けっこう感銘を受けました。
どこにでもありそうな中流家族・・・
リストラされたのを家族に言えないで、毎朝、どこかに出かけていくお父さん。誰も食べないドーナツを一生懸命作るお母さん。自分の居場所、やりたいことを模索して彷徨うお兄さん。一番やりたいピアノを隠れて習う末っ子。
みんな、自分が演じなければいけない役割、あるいは他人から期待されている役割を演じる自分と、本当の自分の間に亀裂ができてくる。
お母さんは、見えない亀裂が少しずつ広がっているのを薄っすらと感じながら何も出来ず、とりあえずせっせとご飯を作ります。そう、この映画には家族揃ってテーブルにつくシーンが多くて、まるで食卓が家族の“港”であるかのように、絆の象徴であるかのように、みんなが集まってくるのが印象的。みんな黙りがちで、決して楽しげな食卓風景とはいえないけど(映画館を出た夫の第一声は「見てたら、お腹が空いてきた。日本のご飯が食べたい」でした。)
この“家族”が一度バラバラになるわけですけど、その壊れ方に悲壮感はなく、むしろ希望が感じられたのですが、エミさんはどうですか?だって一度壊れないと、自分を偽らず、自分のままでいられる家族、その新しい関係が生まれない・・・
フランスの批評の中で、「前半の家族の描写は素晴らしい。ちょっとした表情や仕草で、内に秘める不安や不満を表現している。ところが後半は、みんなが四方八方に駆け出し、それは解決に向けてのドタバタではあろうけど、前半とトーンが極端に違うのが残念」というのがありました。
新たな自分に向かう“爆発”だから、あれはあれでいいと思うけど、極端といえば、息子のピアノの上手さが極端で、真実味に欠けていませんか。あの上手さ、もう頂点に達してて、これ以上上手くなりようがないじゃない!もうひとつの極端は、リストラされたお父さんが、すぐ配給のご飯に並ぶところ。コンビニのお弁当くらいがリアルなんじゃないだろうか?と友達に言ったら「変なとこが気になるのね」といわれましたけど。